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2009年3月24日 (火)

大阪府立国際児童文学館問題-なしくずしの決議

大阪府議会で府庁のWTC移転問題が大きくこじれて結局否決されましたが、予算案と絡んで知事から提出された大阪府立国際児童文学館の廃止案のほうは、知事与党の自民および公明両党が賛成に回り、民主、共産の反対にかかわらず賛成多数で可決されました。10月の全会一致による当面現地存続の決議から現時点の間にこのような形で決議が変わってしまった原因、理由が明確に伝わっておらず、私にはどうにも腑に落ちません。

移転を強行する知事の発言には説得力がないと思われましたし、その点が府庁のWTC移転の議案では問題にされたにもかかわらず、国際児童文学館の件ではかろうじて付帯決議が出されましたが、議決自体は党全体として賛成、反対が統一され、なし崩し的に廃止を決めてしまった感が否めません。

国際児童文学館の廃止案可決について触れた記事を検索してみましたが、付帯決議についてもちょっと触れるにとどまったものになっています。

児童文学館廃止案を可決──大阪府議会 日経ネット関西版

http://www.nikkei.co.jp/kansai/news/news005671.html

付帯決議の内容を転載します。

【付帯決議内容】

 大阪府立国際児童文学館の、中央図書館への移転については、知事、および執行機関は、今定例会で行なわれた議論を厳粛に受け止め、次の諸点について、格段の努力を図るべきである。

 一、国際児童文学館設立時の趣旨に沿い、引き続き資料を収集、保存、活用すること

 一、これまで国際児童文学館において培われてきた、子どもの読書支援センター、ならびに児童文化の総合資料センターとしての機能を引き継ぐこと

 一、府立中央図書館において引き継がれた機能が、府民、利用者に、明確に分かるよう、区分した対応に努めること

廃止案が可決されるにあたって付帯決議が動議されたことからは、知事が寄贈者との話し合いで何の顧慮を見せなかったこれらの面について府議会では意識されていたことがわかりますが、だからこそ前回の議会では当面現地相続を全会一致で採択したのではなかったのかと思います。「格段の努力を図るべき」というのはいかにもとってつけたような感じです。

私は府民でないので利用経験者の立場から国際児童文学館を応援してきました。大阪府のことに府民でない者が過剰にコミットしてかえって改革を支持する府民一般の気分を害するのを避けながら国際児童文学館の価値を訴えるようにしてきたつもりですが、まだ寄贈者が大阪府に託した思いと国際児童文学館を愛してきた府民のみなさんの思いを自分なりに受け止めて今後もこだわっていきたいと思っています。

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2009年3月20日 (金)

大阪府立国際児童文学館問題ふたたび

議会中は記事を更新しない方針でいましたが、そうもいかない状況になっています。9月度の議会で、大阪府立国際児童文学館の「当面現地存続」が全会一致で採択されましたが、知事が廃止案を強硬に2月度議会に持ち込みました。そして議会の雲行きも怪しくなっています。一度全会一致で採択したことがもしも半年もかからずに覆ることがあるとすればそれなりの理由があってしかるべきですが、そのあたりが見えません。
今年1月21日の「国際児童文学館 寄贈者・関係者等と知事との意見交換会」で知事が寄贈者および関係者に対して中央図書館移転への予算案を2月府議会に提出すると述べたことは以前に記しましたが、知事はこの時寄贈者に向かって、寄贈者の思いに反するのであれば、本をお返しするなりの対応になると思うと自ら言ったのです。移転した後に活用の方法を見ていただいて、まずいと思われれば返却はさせていただきますとも言っていますが、まず移転ありきでうまくいかなかったら返すといっても施設を廃止して建物がなくなっていれば返却された資料はいったいどうなるのでしょうか。とにかく寄贈者に対して自分の方針を繰り返すだけに終始し、保存機能を一顧だにしない発言で寄贈者関係者を怒らせました。

知事は、自治体が研究を行うなんて府民が納得しない、そういう財源があるのであれば、それを府民サービスとして、いかに子どもたちに見せるか、喜んでもらうか、もし研究員が研究したいというのであれば、大学でやってください、と
も言っていますが、研究に利用している人は研究員だけではもちろんなく日本中にいるのです。なお大阪府はちゃんと大阪府立大学という研究の場を有しておりますが、自治体が公立大学を運営していることは特に府民が納得しないことではないでしょう。
たとえば自分が生まれる十年前の子ども文化を想像するのは困難です。今の子ども文化を実際に子供のそばにいて研究する人も必要で、アーカイブは子供たちが大きくなった時に役に立つのです。

大阪府立国際児童文学館は研究施設というより資料の保存機能を担う施設であり、江戸期、明治期などの資料を死蔵させないために専門の研究者との連携も必要です。20年を超える歴史で児童文化のあらゆる領域をカヴァーしてきたという世界でも類をみない施設を当時の大阪は生み出したのであり、今世紀になって設立された施設はまだこの国際児童文学館の持つ機能にまだ及びません。いわゆる児童書の他に紙芝居から漫画といったメディア、子供の遊びや替え歌、流行などの地道な研究が積み重ねられてきました。

だから「当面現地存続」でこれからどうすべきか考える時間が必要だと思います。大阪が持つ一番の財産は大阪が育んだ個性あふれる文化であり、「児童文学」という偏見にさらされる言葉が用いられていても、大阪が育んだ文化がこれほどの施設を産んだことについてはもっと知ってほしいのです。

この件に関しては手塚治虫以前の漫画研究で大きな功績を持つ宮本大人氏や、漫画から映画について研究を行っている鷲谷花さんが奮闘しており、素性を明かしていない私よりもずっと苦労なされております。児童文学作家の方々もこの問題にコミットしています。漫画家や漫画評論家と呼ばれる人たちにこの問題を取り上げる人が見られないのは児童文学という言葉への偏見が残っているのでしょうか、いまだにそんなことがあるとすれば残念です。

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2009年3月14日 (土)

『少女の友』創刊100周年記念号と手塚治虫『新宝島』復刻

最初に一言、大阪府立国際児童文学館に関する記事は私の判断で現在更新しておりませんが、10月に議会で存続決議がなされ、現在も議会中でありますので、現時点で性急な動きや反応は避けるべきとの考えで更新を停止しております。なお、大阪府議会の模様については的確かつタイムリにまとめる余裕がないのですが大阪府議会ホームページ に情報が載せられますのでご参考にしてください。

同様の施設では成人でないと利用できない資料室内の貴重な図書資料を中学生以上であれば閲覧を可能としている施設は日本でもここしかありません。これは近隣に住む府民にとってアドバンテージとはいえます。そのかわり貴重な資料を傷めるわけにはいかないことを利用者は心得ていなければならないのです。国際児童文学館が果たす役割が今後一段と増えていくことは現時点でも十分想定されます。なぜならこの施設があればこそ出たような本が近年特に増えているからです。そのような成果としての本を紹介していきたいと思います。

出版不況が深刻とのことですが、最近は海外文学の新訳や古典の復刊、歴史的著作の復刻本など貴重な本が出版されて本屋さんにこっそりと並んでいます。いきなり文庫で出す本に注意です。

今日『少女の友』の創刊100周年記念号が人知れず本屋に置かれたのを見つけました。大きい本屋でないとまず見つかりませんが、まだ注文はたぶん大丈夫でしょう。明治41(1908)年に創刊、昭和30(1955)年の終刊まで48年間の間戦争中もほとんど休まずに毎月刊行された雑誌です。今回の100周年記念号が出るのが終刊から50年をすでに越したことで、どんな雑誌か知る人も少なくなりましたが、明治から今日に至るまで出版されたあまたある少女雑誌の中でいまだ最強と言っても過言ではないでしょう。

なぜかというと、戦後の少女雑誌のほとんどは昭和初期の全盛期に大きく発展した『少女の友』と『少女倶楽部』からのスタイルをそのまま引き継いでおり、しかも年齢層を『少女の友』の全盛期ほど高く幅広くできなかった分やはり子どもっぽさが前面に出ているからで、マンガ雑誌になってしまってからはページ配分から多彩な記事がまんべんなくそろわないからです。

また全盛期の『少女の友』は紙面上に単なる投稿欄に限らない読者コミュニティが築かれて、さらには各地で「友ちゃん会」が開かれて、読者の交流が非常に盛んでした。この強力な読者コミュニティが全盛期の『少女の友』の人気を支えていますが、そこに中原淳一というスターの登場と宝塚ブームの定着によって、戦前の雑誌の中でも極めて独特のポジションを得て戦後の少年少女雑誌にも大きな影響を及ぼしたと考えられるのです。

私が昭和50年ごろに読んでいた学習雑誌の『小学六年生』には数十ページにわたる読者コーナーがありました。たとえば手塚治虫の影響も『漫画少年』のような雑誌によって漫画家志望の若者たちのコミュニティが生まれることによって活性化されたであろうし、近年でも投稿雑誌文化から文筆家やクリエータを輩出したようなことは、別に戦後に限らず雑誌文化が担っていた大きな役割でありましたが、『少女の友』の全盛期の読者は戦中の厳しい時代を耐えて生き抜かねばならず、その影響は戦後になってすぐに中原淳一のプロデューサーとしての八面六臂の活躍などで大きく花開くことになったと思われます。

この記念号に続いて、中原淳一が制作した付録と昭和13年1月号を完全復刻したセットの発売が予定されています。14700円とお値段が張りますが、今回の100周年記念号では文章の部分は今の活字を使って直接復刻部分をなるべく抑えており、3800円といっても手間はものすごくかかっていることを考えれば、付録と雑誌丸まる一冊を復刻したセット価格としてはべらぼうに高いわけではないと言えるでしょう。昭和13年において戦後の少女雑誌と比較しても古さは感じないと思います。

『少女の友』創刊100周年記念号が今の若い人にどう映るかはちょっとわかりません。全盛期当時の雰囲気を忠実に再現するのは解説の都合上無理で、たとえば松本かつぢの挿し絵や漫画はこの雑誌の中ではけっこう多くのページ数が割かれて目立っていたものです。私は昭和の雑誌もリアルタイムで読んで来たので、解説を別冊にして2冊セットにするといいなあなどと思いもするのですが、少女雑誌にとどまらない雑誌の歴史や日本の文化史にとってさまざまな考えるヒントはじゅうぶんに提供されていると思います。この本を読むまでわからなかったこともいろいろと知りました。また別途ブログのネタにしようかと思っています。

さて、これに先んじて酒井七馬の原作・構成で手塚治虫が作画をした『新宝島』オリジナルの完全復刻版が出ました。通常版が2000円、豪華限定版が7980円とかなり差があります。しかし通常版にもついている冊子『新宝島読本』を読むと、『新宝島』の謎を解くための手掛かりとなる手塚治虫が戦争末期に描いた習作「オヤジの宝島」について大きくページが費やされ、その「オヤジの宝島」といえば豪華限定版のほうに特典として含まれているのです。

限定版を買わないと他でちょっと読む機会がないと思うと、先に通常版を買って読本を読んだ結果、結局限定版を買いなおすという二重買いのはめになりかねません。「オヤジの宝島」があとから別売される可能性は全く未知数で、もし出すとしても当分出る可能性はまずなさそうで悩みどころ、しかも通常版の函は限定版にはありませんので、限定版のセット用の大箱から「新宝島」の本編の本をいちいち出し入れするのは面倒という微妙な面があります。もちろんそもそも函なんかいらないと割り切るならば別に問題ありません。

むしろ限定版のこれだけでは足りないというべきか、酒井七馬が戦前に手がけた作品-主にアニメーションですが-を見てみないと手塚側の資料だけでは、酒井が戦前から受け継いだ漫画とのつながりが見えないで、<手塚治虫の決定的な新しさ>ではないかもしれない手塚独特の個性だけが<新しいマンガの誕生>と結び付けられてしまうことにならないかとも思います。

そこで自分なりに一言で感想を書けば、「新宝島」は限りなくアニメーションに近い紙芝居のように思いました。紙芝居とは蔑称として言っているのではなく、一枚絵の順番が与える側で定められている形式です。たとえば私は携帯コミックは紙芝居的な傾向の強いメディアだと思います。

ところでいまデジタルコミックのさまざまな試みがされているといいますが、インタラクティブで分岐などがあったりしても、その根本には紙芝居のような連続性がベースになっている傾向が強いような気がしています。

作者の与える読み順をまったく無視して読みたいところだけを適当にピックアップしたり読む順番をランダムに変えることが読者の特権として最大限に許されていることが、本という形式にまとめられたマンガの持つ最もユニークな特性だと私が考えるところで、これが発達するのは昭和前期に海外マンガが日本に入ってきた頃からだと思っていますが、そう思うのは少年少女雑誌におけるビジュアルがその時期にとても発達したからです。たとえば文字の縦書きによる垂直方向のベクトルとコマの読み順の水平方向のベクトルが共存することから織りなされる読みの方向のゆるみの端緒は戦前の途中にあったのですが、そのあたりの資料はあまり目に触れないところにあります。そこにエピソードが積み重なり決めのコマが生じることにより緩急とリズムも生まれます。少女マンガが育んだ装飾性は読み順の不確定さを招きやすくしています。

そのような漫画の特性を手塚は早いころから使いこなしたと言えるでしょう。そこから「新宝島」を読んでみると、酒井のアニメーションを経たスタイルと手塚の「オヤジの宝島」はもともと近いところがあったのかもしれないとも思いましたが、それは今のところ憶測としか言えません。手塚研究がどこまでこの作品を解き明かすか期待したいと思います。

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