今日発売の読売新聞夕刊、本・よみうり堂のコミック館のコーナーで、藤本由香里さんが先ほど復刊のあった伝説的少女まんが家である高橋真琴の作品を雑誌中心に調査した成果を書いて記事になりました。昭和33年(1958)に光文社の雑誌「少女」での初の連載「あらしをこえて」で、まんがにスタイル画が導入され、その後の少女まんがの独特と言われるスタイルに決定的な影響を与えた、というものです。
高橋真琴が少女まんがに大きな影響を与えたという話自体は昔から伝えられていたのですが、長い間実際にマンガ作品が読めないこともあり、はたしてその伝説の実際はどうなのか、という点について当時の少女雑誌を集中的に読み込むことで、明らかな変化があったということをつきとめたことになります。
自分も少女まんが雑誌を読み始めて以来、ときどきここでは実験が行われているんじゃないだろうか、と思うことがときどきありましたが、高橋真琴の実験がピークに達するのが「あらしをこえて」の前の号になる昭和32年12月号の「のろわれたコッペリア」であり、戦後少女雑誌の絵物語的レイアウトをまんがと融合させる試みが当時の他の作品と比較しても、あるいはその後の少女まんがと比較してもなお特異な印象を与えるものらしいのです。
当時のマンガ界は光文社の少年少女雑誌の天下で(その名もずばり「少年」と「少女」)、後に女性週刊誌の「週刊女性自身」を創刊する天才編集者と呼ばれた黒崎勇氏が「少女」の編集長でした。
ちなみに日本で最初の女性週刊誌は「週刊女性」で、今検索をかけたら電通の作った年表のページによれば驚くことに昭和32年に河出書房から創刊されていました。河出書房が倒産して主婦と生活社から復刊されて現在に至っているようですが、この時期に雑誌界に大きな変化が生じたことがうかがえます。
「女性自身」が創刊されたのが昭和33年12月ですが、「少女」という雑誌は当時非常に斬新なつくりであったことも藤本由香里さんやヤマダトモコさんが調査で実物を見て驚いたとの話を伝え聞いています。表紙を円形にくりぬいて中から次の見開きの一部が見えるとか、高橋真琴の作品で原稿の横幅をちょっと広くして、読むときに折り込みを開くと折り込みに隠れていた画面が現れる仕掛けのまんががあったらしいんですが、とにかくそういった工夫がゴージャスだったようなのです。
まんが家からデラックスマーガレットなどの表紙絵描きを経て今はこんな絵になっています。今でもこれ一筋という感じで、原画の瞳の星の配置が本当に星座のようになっています。瞳の星の変遷をたどる調査から高橋真琴が圧倒していたという感じで調査が進んだのでしょう。
ちなみに内藤ルネが付録などにイラストを描き始めるのも昭和33年頃から本格化しており、弥生美術館の学芸員である中村圭子さんが内藤ルネの本に労作である出版関連リストを作成し掲載していますが、それによると「少女クラブ」がお正月増刊で絵はがきに起用し、その後すぐ「少女」が付録を依頼しています。5月には少女ブックとりぼんがルネに依頼を開始し、高橋真琴と内藤ルネのブレイクがほぼ同時期であることがわかります。高橋真琴は書き込みに凝って遅筆のため「少女」の独占に近い状況でしたがほかの雑誌にも書いています。ちなみに日本で初めてのマンガ家と編集部との正式な専属契約は少女クラブとちばてつやとの間に交わされたもので、少女クラブの名編集者である丸山昭氏がはっきりと明言しておりますが、年を忘れてしまいました。「ママのバイオリン」の連載も昭和33年から始まっています。ちばてつやは人気作家として後に少年ものと掛け持ちしやがて少女まんがから離れますが今読んでも十分面白いもので、高橋真琴氏の今回復刻された作品も思ったよりしっかりしていて、その世界は大人っぽくさえあり、優れた資質を持っていたことがわかる面白いものでした。
出版関連リストが載っている本はこちら。
ちなみに中原淳一とともに戦前一世を風靡した松本かつぢは昭和29年頃引退を宣言したそうで、戦前の大スターである蕗谷虹児が抒情画の依頼を失うのが昭和30年、大城のぼるが戦後少女向けに作品を書きながら筆を折るのが昭和31年頃と考えられますので、手塚治虫のインパクトが少女雑誌に及んだのがもしかすると関係あるのかもしれませんが、手塚の持っていない部分を追究したのが高橋真琴だったと言えるでしょう。大阪から東京に呼ぶために飛行機を使わせた作家は手塚と真琴だけだったと伝説になっています。
二冊箱入りセットのため表紙が違いますので注意。
これは戦前の大物作家が筆を折っていく時期にあたる、雑誌に進出する前の貸本時代の作品で、初期作品は意外な側面を見せて、「さくら並木」は卓球マンガ(バレエまんが絵物語つき)としても面白いです。こんな作品があるとは!
戦後に独立して出版社を興し独自路線で少女文化に抜群の影響力を誇った(内藤ルネの師匠でもある)中原淳一を好んだという高橋真琴の画風には、蕗谷虹児の点描、玉猫のような独特の手法がはっきりと受け継がれでいます。松本かつぢからの流れとはやはりちょっと違うようです。
ちょっと遅くなりましたが週末に図書館でも記事が見られるのではないでしょうか。このへんの話はいろいろと書きたいのですが今回きちんとチェックしてないので誤りがあるかもしれません。今後手直しがあるかもしれませんのでお断りしておきます。
言うまでもないかと思いましたが、高橋真琴は今でも現役の絵描きとして活躍しています。
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