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2006年5月21日 (日)

松本かつぢ展へ行く(続き)

ずいぶん間が空いてしまいました。藤田継治展が今日までだったのですが見損ねて残念。これ以上間が空くと来週になってしまうのでここで更新してしまいます。

さて、松本かつぢ展の続きになりますが、まずご長男の二森騏さんのお話があり(結婚の際子供を母方の籍に入れる条件を約束したいうことで実の長男である)、かつぢは子どもが大好きだったようで、子だくさんで7人の子のうち上から3人を留学させ長男の騏さんだけが日本に帰国し次男、長女はそのままアメリカに移り住んだとのこと。略年譜によると昭和35年に留学から帰国した騏さんとともに「克プロダクション」を設立しベビーグッズの企画・制作を行って、ちょうど私が幼い頃はかつぢグッズ一色と言っても過言ではないくらい本当に一世を風靡しておりました。戦前ライバルと言われた中原淳一とは性格も家庭生活も対極的といって良いほど異なっていたようで、本質的には抒情画家よりも童画家の素質が強い方と思われました。クルミちゃんは後に二頭身になるなど大胆なデフォルメがうまく、何でも描けるデザイナーという感じで、戦後マンガやイラストにも大きな影響を持っているとおもっています。

上田トシコさんのお話では長谷川町子さんの話が印象的で、今回の展示に合わせて出版された河出のらんぷの本「松本かつぢ」に書かれてますが、田河水泡の弟子だった長谷川さんが便箋屋を紹介してもらうために毎日絵を持参してはかつぢを訪ねたとのことで、このときの出来事がきっかけとなって上田さんは本格的に絵のレッスンを自らに課すようになったようです。

もちろん戦前からかつぢの描いた絵はがきや雑誌の付録はたいへん人気があり、今見てもまったく古くありません。クルミちゃんのキャラクターはものすごく人気があって別人が描いた偽物も相当出回ったことも今回の展示で明らかにされました。

戦後間もなく連載の始まったサザエさんのキャラクターは長谷川さんが古くからあたためていたものとのことで、かつぢが「毎日子供新聞」の編集を任されてそこで上田先生に漫画を描かせ、上田先生がハルピンに戻る事情で昭和13年から長谷川先生に引き継がれたようなのですが、上田先生によれば長谷川先生が4コマのギャグ漫画を書くようになったきっかけではなかったかとのことでした。戦前の長谷川作品というと私が思いつく限りで「仲よし手帖」くらい、一応調べると確かに戦前に少女倶楽部に連載していますが、私は戦前の作品は読んでいないので最初は短い物語漫画や一コマなどを描いていたのでしょうか。

上田先生は「女漫画」という言葉を使って戦前では女性漫画家というのは考えられなかった、上田先生もかつぢのファンとして特に漫画家になるつもりはなかったところが女学生のモデルとしての需要もあって弟子入りということになり、そこに田河水泡の弟子である長谷川町子が現れて、二人の奇特な師匠がいたことによって女性漫画家の活躍へと道が開かれたということになるようです。(ただし杉浦茂さんの回想録によると戦前にも女性漫画家が何人かいて、長谷川町子の登場以前には少女向き、子供向きには描いていないとのこと)

展示には上田先生の戦前の物語漫画も展示されていて私はそちらに気をとられていたのですが、かつぢ展のギャラリートークの後で夢二の展示室の解説があるため、がらんとした展示室で、夏目さんと解説をされた堀江さんが展示を前に話をしていて、少女マンガ研究者のMさんが夏目さんに付き添っていましたので、なんだろうと思い見に行くと、昭和9年に少女の友の別冊付 録として収録されたという「なぞのクローバー」についてお話をしているところでした。これについては夏目さん自身がブログに記しているので説明のヘタな私よりも そちらを参照していただいたほうが良いでしょう。

ところで長谷川町子についてご友人の方がお話をされているページがありましたので参考まで。
http://www.ncbank.co.jp/chiiki_shakaikoken/furusato_rekishi/hakata/058/03.html

ちなみに「スピード太郎」が1930(昭和5)〜34年に新聞で連載、35年に単行本化されており、「のらくろ」の連載開始が1931年ですから、かなり早くから漫画に興味を持っていたと思われるかつぢが物語漫画を描いていてもおかしくはないのですが、夏目さんが驚いていたのが、このかつぢの作品がリボンの騎士に通じるようなダイナミックな活劇ものだったわけです。私はたぶん無意識に戦後の作品と決めつけて見落としていたようで、リボンの騎士が人気となり探偵ものや冒険ものが少女雑誌でも流行した昭和29年の間違いでないかとふと思ったのですが、夏目さんが真剣に見ているのを見て批評家ではなくてしっかりと研究者なのだなあと思うとともに、これはモノクロでもありかつぢの画家としての特異性から9年でも成立しえたのではないかと思い直しました。今回出版されたかつぢの本には掲載されていませんが、つい最近発見されたものということで、まだこれから研究調査の余地があるでしょう。ここで仮にもし昭和29年のものだとしてもその見事な構図はその当時のマンガ界の平均の水準を軽く上回っていますので、この時期ならリボンの騎士にあやかって人気が出ておかしくないし、またちょうど昭和29年頃に抒情画家からの引退を表明していて、漫画家として本格的に活躍しようと思えば成功間違いないと思われるのに、マンガはあくまでクルミちゃん中心だったというのもうまく説明できないところなのです。

ディズニーに興味を持ち戦時中にアニメーションを作っていたということなので、戦前のマンガシーンの主流からかなり外れたところで独自のマンガ表現を追究していたかつぢの全貌を明らかにすることには大きな意義があるでしょう。

かつぢの本に掲載されている昭和10年頃のかつぢが名づけた「抒情漫画」を見ると、海外のマンガを咀嚼してすらりとしたスタイルでどこかしらアメリカナイズされている絵柄でモダンな感じが、国際都市ハルピンで育ち抒情画にはさほど興味の無かったという上田さんがかつぢの絵を気に入ったであろうとうかがわせます。

ちなみに「スピード太郎」は現在の4コママンガのように縦進行なので、画面構成に制約ができてしまい、しかも冒頭を見ると一目瞭然なのですが海外漫画の横進行のコマ割りを輸入したままで縦進行で描いているためにコマ割りがちょっとおかしなところがあるのです。
宍戸左行に比べると松本かつぢは絵も構成力もデフォルメの才能も格段に上なので、昭和10年頃の西洋のお城を描いた華麗で精細な絵柄を見ると、マンガに進出する際にストーリーものを手がけてみた可能性は私の知識では決して捨てられません。これは希望的観測ですがあまりに早すぎて抒情画を好んだ当時の読者には難しすぎて受け入れられなかったかもしれず、昭和13年からクルミちゃんの連載を始めるまでの作品の変遷がどのようだったのかが興味を惹くところです。もう少し当時の海外マンガについてもきちんと知りたいところです。

昭和10年代のはじめは戦前の映画(活動写真)も黄金時代で、溝口健二が初期の傑作を手がけたり、小津安二郎は最初アメリカ映画に傾倒していたと聞いていますので、さらに新しい発見につながる可能性に期待してみたいと思います。

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