松本かつぢ展へ行く(続き)
ずいぶん間が空いてしまいました。藤田継治展が今日までだったのですが見損ねて残念。これ以上間が空くと来週になってしまうのでここで更新してしまいます。
さて、松本かつぢ展の続きになりますが、まずご長男の二森騏さんのお話があり(結婚の際子供を母方の籍に入れる条件を約束したいうことで実の長男である)、かつぢは子どもが大好きだったようで、子だくさんで7人の子のうち上から3人を留学させ長男の騏さんだけが日本に帰国し次男、長女はそのままアメリカに移り住んだとのこと。略年譜によると昭和35年に留学から帰国した騏さんとともに「克プロダクション」を設立しベビーグッズの企画・制作を行って、ちょうど私が幼い頃はかつぢグッズ一色と言っても過言ではないくらい本当に一世を風靡しておりました。戦前ライバルと言われた中原淳一とは性格も家庭生活も対極的といって良いほど異なっていたようで、本質的には抒情画家よりも童画家の素質が強い方と思われました。クルミちゃんは後に二頭身になるなど大胆なデフォルメがうまく、何でも描けるデザイナーという感じで、戦後マンガやイラストにも大きな影響を持っているとおもっています。
上田トシコさんのお話では長谷川町子さんの話が印象的で、今回の展示に合わせて出版された河出のらんぷの本「松本かつぢ」に書かれてますが、田河水泡の弟子だった長谷川さんが便箋屋を紹介してもらうために毎日絵を持参してはかつぢを訪ねたとのことで、このときの出来事がきっかけとなって上田さんは本格的に絵のレッスンを自らに課すようになったようです。
もちろん戦前からかつぢの描いた絵はがきや雑誌の付録はたいへん人気があり、今見てもまったく古くありません。クルミちゃんのキャラクターはものすごく人気があって別人が描いた偽物も相当出回ったことも今回の展示で明らかにされました。
戦後間もなく連載の始まったサザエさんのキャラクターは長谷川さんが古くからあたためていたものとのことで、かつぢが「毎日子供新聞」の編集を任されてそこで上田先生に漫画を描かせ、上田先生がハルピンに戻る事情で昭和13年から長谷川先生に引き継がれたようなのですが、上田先生によれば長谷川先生が4コマのギャグ漫画を書くようになったきっかけではなかったかとのことでした。戦前の長谷川作品というと私が思いつく限りで「仲よし手帖」くらい、一応調べると確かに戦前に少女倶楽部に連載していますが、私は戦前の作品は読んでいないので最初は短い物語漫画や一コマなどを描いていたのでしょうか。
上田先生は「女漫画」という言葉を使って戦前では女性漫画家というのは考えられなかった、上田先生もかつぢのファンとして特に漫画家になるつもりはなかったところが女学生のモデルとしての需要もあって弟子入りということになり、そこに田河水泡の弟子である長谷川町子が現れて、二人の奇特な師匠がいたことによって女性漫画家の活躍へと道が開かれたということになるようです。(ただし杉浦茂さんの回想録によると戦前にも女性漫画家が何人かいて、長谷川町子の登場以前には少女向き、子供向きには描いていないとのこと)
展示には上田先生の戦前の物語漫画も展示されていて私はそちらに気をとられていたのですが、かつぢ展のギャラリートークの後で夢二の展示室の解説があるため、がらんとした展示室で、夏目さんと解説をされた堀江さんが展示を前に話をしていて、少女マンガ研究者のMさんが夏目さんに付き添っていましたので、なんだろうと思い見に行くと、昭和9年に少女の友の別冊付 録として収録されたという「なぞのクローバー」についてお話をしているところでした。これについては夏目さん自身がブログに記しているので説明のヘタな私よりも そちらを参照していただいたほうが良いでしょう。
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