蕗谷虹児展と石子順造展
久しぶりの更新です。12月10日に府中市美術館で石子順造的世界展のオープニング、18日には町田市民文学館ことばらんどの蕗谷虹児展の最終日に行ってきました。虹児はかつて弥生美術館で見たあと、新潟でマンガ学会大会開催時に、新発田市の蕗谷虹児記念館に行き、石子順造は幻触展を見た時に彼の思い出を語る冊子を入手したもののその後の動きには疎くなっておりました。
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久しぶりの更新です。12月10日に府中市美術館で石子順造的世界展のオープニング、18日には町田市民文学館ことばらんどの蕗谷虹児展の最終日に行ってきました。虹児はかつて弥生美術館で見たあと、新潟でマンガ学会大会開催時に、新発田市の蕗谷虹児記念館に行き、石子順造は幻触展を見た時に彼の思い出を語る冊子を入手したもののその後の動きには疎くなっておりました。
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少年少女雑誌に載った漫画が欧米風のコマを割った漫画形式を採り入れ始めるのは、だいたい大正末期で、「正チャンの冒険」が大正12年に掲載開始していますが、その後「のらくろ」に至るまでの期間となると、現実にはかなり多様なスタイルが生まれて混沌としている感があります(とはいうもののこの時期の雑誌をまとめて読んではいないのですが)。
大正と昭和の境では長崎抜天や藤井一郎がいますが、大正の子供向け漫画の代表的な作家である山田みのるが漫画漫文形式ではないコマ割りを割ったスタイルの漫画に取り組んでいたのを見つけて、この作家が大正14年に亡くなってしまったのは実に残念と思わずにいられませんでした。
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本棚に、山口昌男著「「敗者」の精神史」上下巻の紹介を載せました。
「『少女の友』創刊100周年記念号」の年譜に川端龍子の漫画に関する記載が載っていましたが、小杉放庵が漫画を描きはじめた明治30年代との比較で龍子の明治40年代からの活動が下巻のほうにきちんと書かれています。
博文館文化についても詳しく触れられていて、衰退期の仇花ともいえる『新青年』や『少年少女譚海』についても評価のコメントが記されていたと思います。
ちょっと詳しく書きたいのですがもう遅いので別の機会に。
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昨日は渋谷に行く途中で東京大学駒場キャンパスに寄ってみました。この時期は何となく駒場と本郷に行ってみることがあるのです。花見の時期かなと思ったのですがあまり咲いていないというより風が強いのか散ってしまった木も多く?いずれにしてもあまり花見には向いていません。校内に病院がある本郷キャンパスと違って一応一般人お断りのようだし。
建物も新しく建てられたものに入れ替わったのが多く、ちょうど新入生が通い始める直前というのか、購買部には東大記念みやげの品もあり、書籍部も午後まで開いていました。
この書籍部がちょうどかゆい所に手が届く品揃えなのがうれしいです。小さい書店が減っていって大書店で本を探すのはなかなか大変で、本屋のなかには在庫があるかどうかを確認する端末が置かれているところも増えていますが、売れ線以外だと分野ごとに分けられていても棚を見ながら本を見つけることに楽しみがなくなってしまったように思います。文庫新書に限った小さい書店とか売れ線の本だけの店とかを分けたほうが使い勝手も思わぬ本を見つける楽しみも増すと思うのですが、今の本屋はそのへんがぜんぜんだめだなあと思います。
マンガそのものではなくその批評や研究関連の本などってマンガコーナーでないサブカル棚にあったり専門書の文化研究の棚にあったりしてもちろん在庫切れも多いので見つけるのがとても面倒なのですが、マンガ学の本が駒場の書籍部では新刊棚に見つかりました。本を注文して買うのはあまり好きじゃないんで、やはり適度なサイズの売り場に学生向けに揃えられた店は気持ちいいです。見つけたのは竹内オサム氏の「本流!マンガ学」で、同じ竹内氏と夏目房之介氏が監修した「マンガ学入門」のほうはまだ発売されていませんでしたが、版元のページでも見つけられず遅れているのかと思っていたら、こちらは4月13日発売のようで来週には出回るでしょう。
「本流!マンガ学」はマンガ研究を行う上での問題について筆者がこれまで書いてきたことをまとめたもののようですが、年表の正確さと先行研究を踏まえることに関してマンガ研究ではけっこう面倒な問題があります。先行研究のおおくは大学の紀要などなどのアカデミズムとは離れた同人による私家版の評論誌に掲載されることが多く、その全体像を見極めるのがかなり面倒なのです。先行研究をできるだけ調べないと論文として書けないのですが、このあたりを日本マンガ学会あたりでデータベース化しないと個人のデータベースもアクセスされていなければ使えず、結局マンガ研究にとってはネックとなります。
これまで雑誌を調べて簡単な年表をメモっていましたが、正確なものを作るのは結構手がかかります。そのような作業を進めている人がいま結構います。
以下に記したのはちょっとしたメモで、過去の年表をそのまま引っ張っているのと自分で調べたのを混ぜただけなので正確さについては保証の限りではありません。
大正期に「漫画」の語が定着するまでは、ポンチ、トバエ(鳥羽絵)などと呼ばれた。雑誌にはさし絵の一種として「コマ絵」が載せられた。
北沢楽天、「茶目と凸坊」を明治末頃に描く。(年表未確認)
1913(大正2)年 川端龍子、この年より1918(大正7)まで『少女の友』で漫画を連載。読み切り型? 渡米して、翌年帰国して洋画から日本画へ転向。
1914(大正3)年 『少年倶楽部』創刊。この頃少年雑誌に短い漫画が載るようになる
1917(大正6)年 岡本一平「珍助絵物語」を『良友』に連載、翌年「平気の平太郎」連載。続きものの嚆矢?
1919(大正8)年 『少女の友』1月号付録「友子の空想旅行双六」川端龍子作。川端は大正期の『少女の友』で表紙を担当。ストーリーを持った漫画仕立ての双六の例。
1922(大正11)年 宮尾しげを、東京毎夕新聞社に入社。新聞に「漫画太郎」を連載。以降児童漫画の第一人者として多数の少年少女雑誌に連載を持つ。
1923(大正12)年 「正チャンの冒険」織田一星作『アサヒグラフ』で連載開始。作画の東風人は樺島勝一の別名。樺島勝一は挿絵画家としては、一見して写真のようにみえる独特の密描挿絵を少年雑誌に描いて人気を博した。
同年に麻生豊「ノンキナトウサン」、『報知新聞』に連載。欧米の新聞漫画のスタイルが採り入れられるようになる。
長崎抜天「ピー坊物語」、『時事新報』に連載。楽天門下の漫画家が新聞漫画で活躍。
1925(大正14)年 この頃、山田みのる、清水対岳坊、坂本牙城、新関青花など『少年世界』に登場。新関はとりわけ絵がうまかったが、次第に童画的な動物が主人公の漫画を得意として戦後も別名として使っていた健太郎名義で活躍した。
藤井一郎「ロイドの冒険」を『少年倶楽部』に連載開始。海外漫画のスタイルが採り入れられている。
巌谷小波作、岡本帰一画「木兎小僧一代記」、『大阪毎日新聞』。
1926(大正15)年 中野正治、『少年世界』で16ページの漫画特集ページをひとりで?手がけるなど活躍。短編を多数組み合わせてさまざまなコマ割りの実験を行った。グラビアのレイアウトからアイデアを採り入れたとも考えられるが、さらに遡るとカルタ、双六のレイアウトからの影響か。
版元の博文館は、この時期かもう少し後の昭和初めには『新青年』でも海外漫画を紹介した。なお『新青年』はおそらくかつてのブームによって劣化が進んだと思われ、復刻版が出ているが原書の閲覧は制限されていることが多かった。
大正末から昭和の初めには、華宵事件の後、読み物に力を入れた『少年倶楽部』が時代劇の挿し絵に山口将吉郎、岩田専太郎、伊藤彦造など密描挿絵系の挿絵画家を起用して少年たちに支持されたが、滑稽小説には童画の川上四郎(大正初期『良友』出身)など戦後漫画に通じるような明朗な整理された線の絵柄の画家を起用しており、この頃から少年少女向け漫画が童画に範を求める傾向が強まったと思われる。
グラビアに映画のダイジェストが載るようになり、レイアウト構成が漫画に影響した可能性がある(特に少女雑誌)。
また、見開き2ページを使ったモブシーンを描いたヒトコマ漫画が流行し、手塚治虫のモブシーンに至るまで定番化する。小野寺秋風が戦後まで一貫してこのスタイルを貫いた代表的な作家だが多数の作家が好んで描いている。
1928(昭和3)年 田川水泡「目玉のチビちゃん」シリーズを『少年倶楽部』不定期連載開始、少年倶楽部プロダクション制作と銘打たれた。なお田河水泡は漫画家デビュー当初「田川」名義で、コマはタテ進行であった。
1929(昭和4)年 『少女画報』1月号よりさし絵担当だった松本勝治が漫画を描き始める。童画性の強い絵柄の井上猛夫や、戸澤辰雄などがこれに続き、さらには麻生豊や中野正治なども参加。版元の東京社は当時『コドモノクニ』で岡本帰一、武井武雄、村山知義、初山滋など歴史に残る童画家を起用して一時代を築いた。
この年の『少女画報』は6月に井上猛夫「奇々怪々隠れ衣」を連載開始し、漫画路線を着々と進めて少女雑誌に続きものの連載が定着するようになった。
1930(昭和6)年 田河水泡「のらくろ」連載開始。『少年倶楽部』の長期連載作品となる。
漫画で先行した『少年世界』は満州事変以降いち早く戦時色を強めていき娯楽性に乏しくなって昭和8年にその長い歴史を閉じる。
1932(昭和8)年 松本かつぢ「ぺぺ子とチャー公」を後発の『少女の友』に連載開始、翌年「ピチ子とチャー公」と改題、「世界漫遊編」と合わせ昭和12年までの連載となる。
昭和13年から引き続き連載開始された「くるくるクルミちゃん」は昭和15年で連載を終えるが、キャラクターグッズがヒットして戦後に再開され、さまざまな雑誌を渡りながら足かけ30年を超える連載となった。
昭和6年に岩下小葉に代わり主筆となった内山基はおそらく当時の漫画にさほどの理解を示していなかったと思われるが、少女倶楽部とのライバル関係もあり、松本かつぢは自ら叙情漫画と名づけて洗練された少女向けの漫画表現をそのままさし絵にも採り入れて『少女の友』の独自性を土台から支える存在となった。
※ このメモはおもな少年少女雑誌に限り、幼年向け雑誌および『講談社の絵本』、『コドモアサヒ』や子供新聞といった児童向けメディア、赤本漫画などには触れていない。
画家の川上四郎が編集にもかかわり岡本一平の「珍助絵物語」が掲載された『良友』は、鈴木三重吉の『赤い鳥』に比べてその知名度はほとんどありませんが、「花物語」を書く前の吉屋信子が童話を書いていたらしいですね。確かKAWADE道の手帖で「吉屋信子」という本も昨年の末くらいに出ています。
なお、川上四郎については国際子ども図書館の「絵本ギャラリー」のなかで「コドモノクニ」の紹介の項で書かれているものがあります。
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大阪府議会で府庁のWTC移転問題が大きくこじれて結局否決されましたが、予算案と絡んで知事から提出された大阪府立国際児童文学館の廃止案のほうは、知事与党の自民および公明両党が賛成に回り、民主、共産の反対にかかわらず賛成多数で可決されました。10月の全会一致による当面現地存続の決議から現時点の間にこのような形で決議が変わってしまった原因、理由が明確に伝わっておらず、私にはどうにも腑に落ちません。
移転を強行する知事の発言には説得力がないと思われましたし、その点が府庁のWTC移転の議案では問題にされたにもかかわらず、国際児童文学館の件ではかろうじて付帯決議が出されましたが、議決自体は党全体として賛成、反対が統一され、なし崩し的に廃止を決めてしまった感が否めません。
国際児童文学館の廃止案可決について触れた記事を検索してみましたが、付帯決議についてもちょっと触れるにとどまったものになっています。
http://www.nikkei.co.jp/kansai/news/news005671.html
付帯決議の内容を転載します。
【付帯決議内容】
大阪府立国際児童文学館の、中央図書館への移転については、知事、および執行機関は、今定例会で行なわれた議論を厳粛に受け止め、次の諸点について、格段の努力を図るべきである。
一、国際児童文学館設立時の趣旨に沿い、引き続き資料を収集、保存、活用すること
一、これまで国際児童文学館において培われてきた、子どもの読書支援センター、ならびに児童文化の総合資料センターとしての機能を引き継ぐこと
一、府立中央図書館において引き継がれた機能が、府民、利用者に、明確に分かるよう、区分した対応に努めること
廃止案が可決されるにあたって付帯決議が動議されたことからは、知事が寄贈者との話し合いで何の顧慮を見せなかったこれらの面について府議会では意識されていたことがわかりますが、だからこそ前回の議会では当面現地相続を全会一致で採択したのではなかったのかと思います。「格段の努力を図るべき」というのはいかにもとってつけたような感じです。
私は府民でないので利用経験者の立場から国際児童文学館を応援してきました。大阪府のことに府民でない者が過剰にコミットしてかえって改革を支持する府民一般の気分を害するのを避けながら国際児童文学館の価値を訴えるようにしてきたつもりですが、まだ寄贈者が大阪府に託した思いと国際児童文学館を愛してきた府民のみなさんの思いを自分なりに受け止めて今後もこだわっていきたいと思っています。
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議会中は記事を更新しない方針でいましたが、そうもいかない状況になっています。9月度の議会で、大阪府立国際児童文学館の「当面現地存続」が全会一致で採択されましたが、知事が廃止案を強硬に2月度議会に持ち込みました。そして議会の雲行きも怪しくなっています。一度全会一致で採択したことがもしも半年もかからずに覆ることがあるとすればそれなりの理由があってしかるべきですが、そのあたりが見えません。
今年1月21日の「国際児童文学館 寄贈者・関係者等と知事との意見交換会」で知事が寄贈者および関係者に対して中央図書館移転への予算案を2月府議会に提出すると述べたことは以前に記しましたが、知事はこの時寄贈者に向かって、寄贈者の思いに反するのであれば、本をお返しするなりの対応になると思うと自ら言ったのです。移転した後に活用の方法を見ていただいて、まずいと思われれば返却はさせていただきますとも言っていますが、まず移転ありきでうまくいかなかったら返すといっても施設を廃止して建物がなくなっていれば返却された資料はいったいどうなるのでしょうか。とにかく寄贈者に対して自分の方針を繰り返すだけに終始し、保存機能を一顧だにしない発言で寄贈者関係者を怒らせました。
知事は、自治体が研究を行うなんて府民が納得しない、そういう財源があるのであれば、それを府民サービスとして、いかに子どもたちに見せるか、喜んでもらうか、もし研究員が研究したいというのであれば、大学でやってください、とも言っていますが、研究に利用している人は研究員だけではもちろんなく日本中にいるのです。なお大阪府はちゃんと大阪府立大学という研究の場を有しておりますが、自治体が公立大学を運営していることは特に府民が納得しないことではないでしょう。
たとえば自分が生まれる十年前の子ども文化を想像するのは困難です。今の子ども文化を実際に子供のそばにいて研究する人も必要で、アーカイブは子供たちが大きくなった時に役に立つのです。
大阪府立国際児童文学館は研究施設というより資料の保存機能を担う施設であり、江戸期、明治期などの資料を死蔵させないために専門の研究者との連携も必要です。20年を超える歴史で児童文化のあらゆる領域をカヴァーしてきたという世界でも類をみない施設を当時の大阪は生み出したのであり、今世紀になって設立された施設はまだこの国際児童文学館の持つ機能にまだ及びません。いわゆる児童書の他に紙芝居から漫画といったメディア、子供の遊びや替え歌、流行などの地道な研究が積み重ねられてきました。
だから「当面現地存続」でこれからどうすべきか考える時間が必要だと思います。大阪が持つ一番の財産は大阪が育んだ個性あふれる文化であり、「児童文学」という偏見にさらされる言葉が用いられていても、大阪が育んだ文化がこれほどの施設を産んだことについてはもっと知ってほしいのです。
この件に関しては手塚治虫以前の漫画研究で大きな功績を持つ宮本大人氏や、漫画から映画について研究を行っている鷲谷花さんが奮闘しており、素性を明かしていない私よりもずっと苦労なされております。児童文学作家の方々もこの問題にコミットしています。漫画家や漫画評論家と呼ばれる人たちにこの問題を取り上げる人が見られないのは児童文学という言葉への偏見が残っているのでしょうか、いまだにそんなことがあるとすれば残念です。
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最初に一言、大阪府立国際児童文学館に関する記事は私の判断で現在更新しておりませんが、10月に議会で存続決議がなされ、現在も議会中でありますので、現時点で性急な動きや反応は避けるべきとの考えで更新を停止しております。なお、大阪府議会の模様については的確かつタイムリにまとめる余裕がないのですが大阪府議会ホームページ に情報が載せられますのでご参考にしてください。
同様の施設では成人でないと利用できない資料室内の貴重な図書資料を中学生以上であれば閲覧を可能としている施設は日本でもここしかありません。これは近隣に住む府民にとってアドバンテージとはいえます。そのかわり貴重な資料を傷めるわけにはいかないことを利用者は心得ていなければならないのです。国際児童文学館が果たす役割が今後一段と増えていくことは現時点でも十分想定されます。なぜならこの施設があればこそ出たような本が近年特に増えているからです。そのような成果としての本を紹介していきたいと思います。
出版不況が深刻とのことですが、最近は海外文学の新訳や古典の復刊、歴史的著作の復刻本など貴重な本が出版されて本屋さんにこっそりと並んでいます。いきなり文庫で出す本に注意です。
今日『少女の友』の創刊100周年記念号が人知れず本屋に置かれたのを見つけました。大きい本屋でないとまず見つかりませんが、まだ注文はたぶん大丈夫でしょう。明治41(1908)年に創刊、昭和30(1955)年の終刊まで48年間の間戦争中もほとんど休まずに毎月刊行された雑誌です。今回の100周年記念号が出るのが終刊から50年をすでに越したことで、どんな雑誌か知る人も少なくなりましたが、明治から今日に至るまで出版されたあまたある少女雑誌の中でいまだ最強と言っても過言ではないでしょう。
なぜかというと、戦後の少女雑誌のほとんどは昭和初期の全盛期に大きく発展した『少女の友』と『少女倶楽部』からのスタイルをそのまま引き継いでおり、しかも年齢層を『少女の友』の全盛期ほど高く幅広くできなかった分やはり子どもっぽさが前面に出ているからで、マンガ雑誌になってしまってからはページ配分から多彩な記事がまんべんなくそろわないからです。
また全盛期の『少女の友』は紙面上に単なる投稿欄に限らない読者コミュニティが築かれて、さらには各地で「友ちゃん会」が開かれて、読者の交流が非常に盛んでした。この強力な読者コミュニティが全盛期の『少女の友』の人気を支えていますが、そこに中原淳一というスターの登場と宝塚ブームの定着によって、戦前の雑誌の中でも極めて独特のポジションを得て戦後の少年少女雑誌にも大きな影響を及ぼしたと考えられるのです。
私が昭和50年ごろに読んでいた学習雑誌の『小学六年生』には数十ページにわたる読者コーナーがありました。たとえば手塚治虫の影響も『漫画少年』のような雑誌によって漫画家志望の若者たちのコミュニティが生まれることによって活性化されたであろうし、近年でも投稿雑誌文化から文筆家やクリエータを輩出したようなことは、別に戦後に限らず雑誌文化が担っていた大きな役割でありましたが、『少女の友』の全盛期の読者は戦中の厳しい時代を耐えて生き抜かねばならず、その影響は戦後になってすぐに中原淳一のプロデューサーとしての八面六臂の活躍などで大きく花開くことになったと思われます。
この記念号に続いて、中原淳一が制作した付録と昭和13年1月号を完全復刻したセットの発売が予定されています。14700円とお値段が張りますが、今回の100周年記念号では文章の部分は今の活字を使って直接復刻部分をなるべく抑えており、3800円といっても手間はものすごくかかっていることを考えれば、付録と雑誌丸まる一冊を復刻したセット価格としてはべらぼうに高いわけではないと言えるでしょう。昭和13年において戦後の少女雑誌と比較しても古さは感じないと思います。
『少女の友』創刊100周年記念号が今の若い人にどう映るかはちょっとわかりません。全盛期当時の雰囲気を忠実に再現するのは解説の都合上無理で、たとえば松本かつぢの挿し絵や漫画はこの雑誌の中ではけっこう多くのページ数が割かれて目立っていたものです。私は昭和の雑誌もリアルタイムで読んで来たので、解説を別冊にして2冊セットにするといいなあなどと思いもするのですが、少女雑誌にとどまらない雑誌の歴史や日本の文化史にとってさまざまな考えるヒントはじゅうぶんに提供されていると思います。この本を読むまでわからなかったこともいろいろと知りました。また別途ブログのネタにしようかと思っています。
さて、これに先んじて酒井七馬の原作・構成で手塚治虫が作画をした『新宝島』オリジナルの完全復刻版が出ました。通常版が2000円、豪華限定版が7980円とかなり差があります。しかし通常版にもついている冊子『新宝島読本』を読むと、『新宝島』の謎を解くための手掛かりとなる手塚治虫が戦争末期に描いた習作「オヤジの宝島」について大きくページが費やされ、その「オヤジの宝島」といえば豪華限定版のほうに特典として含まれているのです。
限定版を買わないと他でちょっと読む機会がないと思うと、先に通常版を買って読本を読んだ結果、結局限定版を買いなおすという二重買いのはめになりかねません。「オヤジの宝島」があとから別売される可能性は全く未知数で、もし出すとしても当分出る可能性はまずなさそうで悩みどころ、しかも通常版の函は限定版にはありませんので、限定版のセット用の大箱から「新宝島」の本編の本をいちいち出し入れするのは面倒という微妙な面があります。もちろんそもそも函なんかいらないと割り切るならば別に問題ありません。
むしろ限定版のこれだけでは足りないというべきか、酒井七馬が戦前に手がけた作品-主にアニメーションですが-を見てみないと手塚側の資料だけでは、酒井が戦前から受け継いだ漫画とのつながりが見えないで、<手塚治虫の決定的な新しさ>ではないかもしれない手塚独特の個性だけが<新しいマンガの誕生>と結び付けられてしまうことにならないかとも思います。
そこで自分なりに一言で感想を書けば、「新宝島」は限りなくアニメーションに近い紙芝居のように思いました。紙芝居とは蔑称として言っているのではなく、一枚絵の順番が与える側で定められている形式です。たとえば私は携帯コミックは紙芝居的な傾向の強いメディアだと思います。
ところでいまデジタルコミックのさまざまな試みがされているといいますが、インタラクティブで分岐などがあったりしても、その根本には紙芝居のような連続性がベースになっている傾向が強いような気がしています。
作者の与える読み順をまったく無視して読みたいところだけを適当にピックアップしたり読む順番をランダムに変えることが読者の特権として最大限に許されていることが、本という形式にまとめられたマンガの持つ最もユニークな特性だと私が考えるところで、これが発達するのは昭和前期に海外マンガが日本に入ってきた頃からだと思っていますが、そう思うのは少年少女雑誌におけるビジュアルがその時期にとても発達したからです。たとえば文字の縦書きによる垂直方向のベクトルとコマの読み順の水平方向のベクトルが共存することから織りなされる読みの方向のゆるみの端緒は戦前の途中にあったのですが、そのあたりの資料はあまり目に触れないところにあります。そこにエピソードが積み重なり決めのコマが生じることにより緩急とリズムも生まれます。少女マンガが育んだ装飾性は読み順の不確定さを招きやすくしています。
そのような漫画の特性を手塚は早いころから使いこなしたと言えるでしょう。そこから「新宝島」を読んでみると、酒井のアニメーションを経たスタイルと手塚の「オヤジの宝島」はもともと近いところがあったのかもしれないとも思いましたが、それは今のところ憶測としか言えません。手塚研究がどこまでこの作品を解き明かすか期待したいと思います。
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まずこの記事ですが、あとで情報の正確さを向上するなどの目的でつけたし更新があるかもしれませんので、あった場合には更新の旨をこの文頭に示します。
2月28日追記:
大阪府議会が開催されたばかりですが、Web上の新聞記事の中には記事そのものがローカル向け、短いなど、事実誤認を招きかねないものもあり、検索で引っかかるブログエントリーにも事態についてデマを混ぜるようなものやいい加減なものがかなり増えてきました。
存続を求める立場としては腹立たしいことなどいろいろ言いたいことがあるのですが、議会がまだ開催されたばかりという時点でもあり、現時点では、情報のタイムリーな追加に関しては十分な客観性が保証できないのではないかという個人的な判断により遠慮しています。また、この21日付記事で張ったリンクはまったく十分なものではないことを明記しておきますが、この辺の判断は、リンクを張りすぎたかどうかも含めて、いろいろ誤っているかもしれません。
以上2月28日追記。
橋下府知事就任後から改革の一環として広く知られた大阪府立国際児童文学館の廃止・移転計画についてですが、昨年の10月15日の時点で大阪府議会は、全会一致で「大阪府立国際児童文学館の当面現地存続」を採択しました。
参考記事:
1) 「児童文学館、当面存続」請願 府議会 2008年10月03日 asahi.com My Town大阪
http://mytown.asahi.com/osaka/news.php?k_id=28000000810030002
2) 【大阪力!part4】国際児童文学館・向川館長 2009年01月18日 asahi.com My Town大阪
http://mytown.asahi.com/osaka/news.php?k_id=28000170901190001
しかしながら、橋下府知事は今年1月21日の「国際児童文学館 寄贈者・関係者等と知事との意見交換会」で、寄贈者および関係者に対して中央図書館移転への予算案が2月府議会に提出されるでしょうと述べており、廃止・移転の方針を変える考えがないことを示しました。
大阪府ホームページの知事室のページの知事の動き2009年1月分、1月21日(水曜日)の意見交換会に知事の発言が要約されて掲載されています。
http://www.pref.osaka.jp/j_message/oshigoto/file/0901.html
この意見交換会でのやり取り要約のページが現在私のインターネット環境から直接読めないのですが、寄贈者と知事側に問題意識のずれがあります。私自身納得しがたいところがありますが、とりあえずここでは措きます。
さらに、児童文学館の資料の受入先とされている府立図書館も、「大阪版市場化テスト」
(官民競争入札)の対象業務とされていることが最近になり明らかになりました。以下に情報を示しますが昨年12月と思われます。
大阪版市場化テストに「府立図書館管理運営業務」が採択されたことについては、国立国会図書館の「カレントアウェアネス・ポータル」に情報が掲載されています。
大阪版市場化テストに「府立図書館管理運営業務」が採択される Posted 2008年12月18日(木)
http://current.ndl.go.jp/node/9813
この件に関しては、日本図書館協会(JLA)の見解も見ることができます。
JLA、「図書館を「市場化テスト」の対象事業とすることについて」を公表 Posted 2009年02月19日
http://current.ndl.go.jp/node/11904
このような府の動きへの抗議として、2月15日には「大阪国際児童文学館と大阪府立図書館を考える集い」が開催されました。
「大阪国際児童文学館と大阪府立図書館を考える集い」のページより、
「集い」の開催の通知
http://www.fusyokuro.gr.jp/tosyo_tudoi/tsudoi090215.html
2月15日「集い」集会アピール
http://www.fusyokuro.gr.jp/tosyo_tudoi/tsudoi090215_appeal.html
ニュース 市場化テスト反対 国際児童文学館の機能移転シンポ 大阪日日新聞
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/090216/20090216003.html
この記事では自分の主張の部分は抑えました。今現在も新たな記事が出ているようなので、リンクしなかったところもありますが、関心のある方は大阪版などの記事を探してみてください。大阪の活性化そのものは私としても歓迎するところです。
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長らく更新が途絶えてしまいましたが、本当は書きたいことがたくさんあります。漫画の歴史などについても認識を新たにしたことがたくさんあるのですが、なかなかまとまった時間がとれません。
昨年は戦前の漫画などを調べていましたので、日本の社会も自分が生まれた頃からずいぶん以前と変わってしまっており、世代によるコミュニケーションギャップがありすぎることを懸念しています。戦前に育った高齢者から聞いてみたいことも結構あるのですが、現実問題として時間がありません。
大阪国際児童文学館に関する問題も情報発信が途絶えてしまっておりすみませんでした。
移転問題など緊急的な問題もあるのですが、状況については、「大阪府の国際児童文学館を応援します!」や、「児童文学書評」などにタイムリーに有用な情報が掲載されます。こちらでも必要に応じてできるだけ情報発信できるようにしたいと思います。
そこでさっそくですが、2月15日に大阪で、タイトルに記した通りの内容でシンポジウムが開かれるようです。
大阪府立図書館への市場化テスト導入が検討されているということは初めて知りました。
パネリストは以下の通り。
鳥越 信 氏(児童文学研究者 大阪国際児童文学館の「産みの親」)
塩見 昇 氏(日本図書館協会理事長)
西村 一夫 氏 (大阪公共図書館協会会長)
ちなみに「市場化テスト」については、Wikipediaに項目が記されています。
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児童小説家、批評家のひこ・田中さんが運営されている「児童文学書評」のページに日本マンガ学会からの「大阪府立国際児童文学館の存続を求める要望書」が公開されていました。
検索エンジンで、「児童文学書評」を見つけてください。
存続要望の署名の第二次活動もはじまりました。「児童文学書評」のトップページに用紙が用意されております。署名を募る上で要望書が参考になると思います。
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